ストーリーについて2 型と正常位
あるとき日本映画学校の宴席で今村昌平がスピーチした。
某監督に正常位の素晴らしさを力説されたというどうでもいい話で、結論は「諸君、正常位を馬鹿にしてはいけない」というものであった。
映画の脚本家に要求されるのは、どんなジャンルでも書けることだ。俺もこれまで時代劇、ホラー、サスペンス、ミステリー、コメディ、青春、戦争、恋愛、ヤクザ、ファンタジーなど何でも書いてきた。純文学から漫画まで原作になるし、モデルがいる実話だって脚本にしなければならない。俺はオリジナル脚本も多いから常にいろんなことを勉強しておかないといけない。
しかし、ストーリーを作るときに悩んだ記憶はない。
以前、テーマは必要ない、必要なのはアイディアだと書いた。アイディアを物語のパターンに嵌めていけば誰でも書ける、と。今回はそのパターン、「型」についての話だ。
ストーリーにはいくつかの型があり、どんな映画でも小説でも分解していけば何かの「型」におさまる。まずは「型」のストックが必要だ。俺の場合、子供の頃にやたらと本を読んだことで「型」を覚えたのだと思う。子供だから同じ本を繰り返し暗記するほど読む。シャーロック・ホームズやルパン、明智小五郎はもちろん、シートン、ファーブルからジュール・ベルヌ、アストリッド・リンドグレーン、エーリッヒ・ケストナー、C・S・ルイス、ヒュー・ロフティング、アーサー・ランサム、トーベ・ヤンソン、オトフリート・プロイスラー、斎藤隆介等々、世界各国の素晴らしい作品を浴びるように、舐めるように読んだ。
児童文学を馬鹿にしてはいけない。良質な児童文学は、子供に理想を伝えるために一流の作家が真剣に書いたもので、価値感や生き方について多くを教えてくれる。大人になった今読み返しても感動する。何より面白い。それらは血肉となり今でも俺の精神的財産になっている。ストーリーテラーと呼ばれる作家たちはそういう経験をしていることが多いんじゃないか(宮崎駿監督は学生時代、児童文学研究会に所属していたんじゃなかったっけ?)。
ちなみに漫画も読んだけど、漫画はすぐ読めてしまうのでコスト・パフォーマンスが悪い。水木しげる他興味のある数人の作家の単行本は熟読したが、漫画雑誌は読まなかった。
小学校高学年からは大人の本も読みはじめ、やがて映画や演劇に夢中になっていった。そこでも次々に新しい「型」と出会い、感動し、吸収することになる。落語も大好きでいつも聴いていた。ついでに講談や浪曲も聴いてしまう。だから意識せずに多くの「型」をストックしていたわけです。
「型」を壊すのではなく緩め揺さぶって新しいメロディを探す。
鼻歌でも何となくメロディが作れるのと同じように、誰でもストーリーは作れる(ある程度の「型」のストックと実戦さえ経験すれば)。
しかし、同じ「型」であっても面白い作品もあればつまらないものもあるわけで、つまり面白さの違いはストーリーではないということだ。ではその違いはどこからくるのか。今の俺は、作り手の気持ち(思想)と登場人物の魅力だと思っている。「型」だけの物語には力がない。そこに作り手の思想と人物の魅力が加わってはじめて面白いお話になる。
例えば古典落語には「筋」はある。でもそれだけでは何も面白くない。「火焔太鼓」は、駄目な古物商がたまたま手に入れた汚い太鼓を殿様が高く買ってくれたというだけのお話。「筋」なんてないようなもので、クライマックスは「金を並べられてとてもびっくりする」という場面だ。しかしそこに夫婦の魅力的な描写と「貧乏から脱出できる」という気持ちが重なれば味わいがぐっと深くなる。古今亭志ん生の「火焔太鼓」は何十回繰り返し聴いても面白い。
「型」の中にこういう人を投入すると……化学変化が起こる。
「諸君、正常位を馬鹿にしてはいけない」
『魔王』や『赤の女王』なんか撮っているから信用されないが、俺だって正常位の奥深さはわかっている。しかし作り手にはいろんなタイプがあって、いくつになっても新しい体位を試してぎっくり腰になる奴もいるということだ(親父も最後までそっちだった)。
正常位は素晴らしい。しかし「型」だけの正常位なんて最低で、気持ちと魅力が必要なのは言うまでもない。 /*--------[ここまで。前後は絶対にいじらない。]--------------------------------------------------*/ ?>
